一般的な数値からすると瘦せ気味な体型に憧れてました。
ケイト・モスとかニコール・リッチーとか大好きだった。(いや、今でも大好きだしカッコいいと思う)
Calvin Klein(カルバンクライン)の下着を着用しているのは、ケイト・モスへの憧れが起因している。(私は)
写真から感じる芯の強さみたいなかっこよさに惹かれたし同時にそのファッション性から、あの体型への憧れを抱いた人も多いんじゃないかと思う。
ニコール・リッチーに関しても、ファッショナブルな服装や生活(当時パリス・ヒルトンとのバラエティ番組が大好きだった)から、あんなに自由に人生を楽しんでる!(ようにみえる!)みたいなところに惹かれたんだと思う。
世界的にスーパーモデルという人達の痩せすぎが問題視されてから、モデル体型に憧れることさえ憚れるような時代だけど(健康を害するし成長期の子供達にとっては危険であることは言うまでもないですが)、あの時代は、もちろん、美しく洋服を着用できる体型そのものに憧れもあるけど、本質は体型じゃなくて、あの凛とした強さみたいなものが欲しかったんじゃないかと自分を分析して感じるから、他にも同意してくれる人はいるんじゃないかなと思う。(時代的なものも大きいのかな)
いい歳になったいま、いまでも憧れるしかっこいいし、なれるものならなりたけど、もともとの素材自体が違うし、パーツのサイズも全然違うから、どんなに頑張っても、そこへ到達することは難しいこともわかりはじめて、他者への憧れと自分の理想とを区別して考えられるようになったように思う。
今回、いま一緒に暮らしている彼が私の体から脂肪が少しずつ少なくなっていく様(握れる肉が減ってきてること)を嘆いていて、私は彼の標準よりも痩せ気味な体型を好ましく思っているけど、彼にとってはその握れる肉こそが女性の素晴らしさだとかなんとか言うので、人の好みうんぬんあるけど、結局はないものねだりなのかなぁと思って、ケイト・モスを憧れた自分を考えるまでに至りました。考え事が飛躍した。
ある程度歳を重ねて、心も図太くなって、芯の強さというよりは、たくさん転んできた経験値に基づく何かによって何かの強さを身に着けた私が自分の理想とする体型は、動きやすくて快適で好きな洋服がすんなり履けて(服が好きだから)、ご機嫌でいられること。そして何より健康第一。
どこが達成なのか未だにわからないけど、試行錯誤しながら、楽しみながら、快適な自分を模索して手に入れていきたい。